熱気あふれる、土器、埴輪工房です。
右が左になる、その後はトトロになる。
制作途中。左はゴブレット風土器 右は?? 何になるかお楽しみに
暑い日でした。29日は原村のアメダスが33.1℃の観測史上最高気温を観測した日です。皆さん、「暑いな」が合言葉でした。ゆとりろは木に囲まれていて、涼しい施設ですが、それでも、6月なのに扇風機が登場しました(例年は8月です)梅雨明けも早い分、暑くなるのも早くなった年なのでしょうか。その上、皆の熱気、暑いはずです。
熱気あふれる、土器、埴輪工房です。
右が左になる、その後はトトロになる。
制作途中。左はゴブレット風土器 右は?? 何になるかお楽しみに
暑い日でした。29日は原村のアメダスが33.1℃の観測史上最高気温を観測した日です。皆さん、「暑いな」が合言葉でした。ゆとりろは木に囲まれていて、涼しい施設ですが、それでも、6月なのに扇風機が登場しました(例年は8月です)梅雨明けも早い分、暑くなるのも早くなった年なのでしょうか。その上、皆の熱気、暑いはずです。
4週目に入って、色々な作品が出来上がってきました。
左:内円外方浅鉢、中:台付き鉢、右:時代は変わって銅鐸、と出来上がってますね
1週間おいておくと何と、土に隠れていた種から、こんなかわいい芽が出てくるのです。愛おしくなりますね。
3週目に入りました。もうすでに作品を作り上げた人もいれば、今日から始めた人もいます。まず、前回、お約束した牛さん埴輪のご紹介。表面からも裏面からも、かわいいの一言です。
どうですか、かわいいでしょ❓
左から右になる。上はまだ隠されている。何かな?
左は壺かな?? 右は神像土器を作っている仲間です
同じ土器を作っている二人の懇談です。ああだ、こうだ。
追伸:癒しのりゅうちゃん
この2週間で、4回制作した人もいれば、1,2回の人もいますので、進捗状況はまちまちです。
それでも埴輪工房では、着々と馬たちが誕生しています。左下は牛です。すでに完成しているのですが、次回、完成した牛さんをアップしたいと思います。お楽しみに。
この二つは何でしょう???お楽しみに。
長く厳しい冬が終わり、桜の季節も通り抜け、若葉の季節も絶好調の5月終わりに研修会と言う形で、今年度の活動を始動いたしました。
例年、考古館見学がメインでしたが、今回は館長の小松氏に講演をお願いし、井戸尻遺跡群についての知識を深めました。この富士見町には縄文時代前期から後期までの遺跡が点在しますが、それぞれの時代、それぞれの遺跡では特徴のある土器が出土しています。石器に関しては、矢じりのような狩猟に使うものは少なく、棒につけて土を耕す石斧や刈り取るために使う石の包丁のような石器が多く出土しています。そのことによって、ある程度の農耕生活があったのではないかと言う「縄文農耕論」が生まれました。縄文人の生活を想像するロマンが広がりました。
そして、6月に入り2週目の7日、8日から制作活動を開始しました。それぞれの場所を確保して、密にならないように配慮しながら、土器作りのスタートです。
ここは”埴輪職人”を目指す3人です。先生曰く、埴輪は粘土の輪積みの練習に最適だそうです。
手前はコップのような小さな鉢ですが、全面にきれいな区画文が入れられている精巧な土器、九兵衛尾根遺跡出土です。奥は下半分を欠いていますが、かわいい渦巻きが施文されている鉢、貉沢遺跡からの出土です。
神像土器のレプリカ。奥には内円外方形浅鉢。神像土器を作るのはかなりのエネルギーを必要とします。昨年、この神像土器を作る動画がYoutubeで配信されています。神像筒形土器つくり・井戸尻応援団 – YouTube 制作開始から野焼きでの完成までを追ったきれいな動画です。ぜひ、ご覧ください。
今年も、よろしくお願いします。
今年度の活動の集大成である野焼きを10月19日に行いました。前日まで空模様に一喜一憂した結果、当日は暑くもなく、寒むくもなく、風も強くなく、と三拍子そろった絶好の野焼き日和に恵まれて楽しく野焼きをして、土器を焼き上げることができました。今年は、大きな作品はありませんでしたが、それでも、井戸尻の土器やオリジナルな土器などたくさんの作品が並びました。
ほのおがおさまると、焼きあがった土器が顔を出します。あの黒かった土器が、土色になって出てきます。
コロナ禍で1年休んだのちの活動でした。コロナも気にしつつ、色々な意味での衰えも気にしつつ(正直に言います)何とか、野焼きにこぎつけて本当に良かったです。今年は、新しいお仲間が増えました。うれしかったです。井戸尻考古館や先生にもたくさん協力いただいて感謝です。何より、お仲間と一緒に協力しながら楽しく活動できたことがうれしいです。来年度は「力を抜いた全力投球」を目指そうかな。
追伸:昨日、蔦木宿道の駅より、九州の鹿児島から来た方で休憩室に置いてある複製の土器に興味のある方がいたとご連絡があり、その方とお電話でお話ししました。鹿児島から縄文の旅をして、三内丸山にも火焔土器の新潟にも行って、最後にこの中部縄文遺跡群にいらしたそうで、尖り石にも井戸尻にも行きましたと言うお話でした。その方曰く、何と言っても井戸尻が素晴らしかった、圧倒されたとおっしゃっていました。そして、蔦木宿のお風呂に入りに来たら、何と、今見てきた井戸尻の土器があると感激されたそうです。私たちの活動が、井戸尻が九州につながったなとしみじみ思い、ちょっと、胸が熱くなりました。
今年の5月から8月にかけて、2か所の発掘現場を見学することができました。そのうちの1か所では2,3日、発掘作業に参加し微力ながらお手伝いさせていただきました。どちらも、深さ2,30cmの溝が掘ってあります。その表面を鋤簾(ジョレン)と言う道具で平らにしながら遺物を見つけて行く作業です。
遺遺跡Ⅰの方は埋め込まれた石が多く露出しています。
遺跡Ⅱ、ブルーシートで覆われている部分は住居あとで、今後、詳しい発掘作業が始まります。多くの穴が開いています。
これは、遺跡Ⅰの発掘現場から出た、土器片です。模様もしっかり確認できます。きっと、美しい土器だったのではないでしょうか。
遺跡Ⅱの右側の土器片は、松本方面の遺跡からの出土土器に多く見られる模様だそうで、遺跡Ⅰの模様と趣がちょっと、違っています。左側は落とし穴、深さは何と2メートル以上あります。手前だけ掘ってありますが、向こう側に楕円形をなす、穴であろうということです。イノシシなどならこれほど深くなくてもね、とか、ここに鹿でも落ちたらどうやって引き出すのかなとか考えてしまいます。もちろん、機械もない時代によく、こんな深い穴が掘れたなと思うのが初めの驚きですが。
富士見町にはまだまだ、縄文時代の遺跡にだけ限っても、地下にお宝が眠っているようです。遺跡Ⅱはソーラー開発地区での緊急発掘調査で、今後、このような発掘が増えるかもしれませんね。
「地下にお宝」と言いましたが、ダイヤモンドが埋まっていなくても、石ころ一つだって私たちに縄文時代を知らせてくれる大切なお宝です。昔、月に初めて人間が降り立ったころ、「月にダイヤモンドがたくさんあるかも知れない。そうしたら大金持ち」と言うコメントを見たことがあるのですが、ダイヤでなくたって、石ころだって月の石なら、月を知る上で大変な価値です。遺跡で見つかったものはどんなものでも愛しいのではないでしょうか。5000年もの時を経て、私たちに姿を見せてくれたのですから。
縄文時代は限りなく遠いようです。始まりは1万年以上も前のことで、この富士見町近辺に多くの人が暮らしていたのは縄文時代中期4500年から5500年くらいも前のことだと言われてます。1000年ほどの間に暮らしていた縄文時代の人々は、土器や石器、居住跡を多く残して、現代の我々に「あなたたちと同じ景色を見て暮らしていたんだよ」と言ってくれています。確かに今は人工物が多いですが、植生は変わっても山並みは当時のままでしょう。川も同じように流れていたでしょう。考古館の史跡公園に立ち甲斐駒や鳳凰三山を眺め静かに目をつぶって、人工物を頭の中で取り除くと、縄文の人たちが見ていた景色がそうぞうできます。
土器作りに関していえば、この模様を入れるという発想は何なのか❓と、そうぞうするのです。
そして、色々な土器を作る合間に、自分のオリジナルな縄文風そうぞう物を作るのも楽しみです。
Imagin(想像:実際に体験していないことを推し量る)とCreat(創造:新しいものを初めて作り出す)
遠い縄文時代に想いを馳せ、想像したり、創造したり、とても貴重な時間を過ごしています。
今年度はとりあえず、小ぶりな土器3点を井戸尻考古館からお借りし、解説文を書いていただきました。
香炉型土器 曽利Ⅰ式 曽利遺跡出土
表面に三角刻交叉文があしらわれ、頭頂部に釣手孔を有する小型の香炉型土器。左右に1つずつの孔を有し、この穴を抱くようにして三叉文が施されている。表面下部には、中心に一本の隆帯が走り、施された刻みによって引き締まった印象が備わっている、均整の取れた端正な仕上がりの土器である。裏面のほどんどが現存しておらず、残念ながら、施文の全容を知ることはできない。
区画文筒形土器 藤内Ⅰ式 九兵衛尾根遺跡
縦帯区画文を地紋とする、口径・胴径・底径に大きな差のない円筒形深鉢である。口唇部から二対の垂下降帯が対峙して器面を二分している。縦帯区画文は藤内Ⅰ式期に最盛期を迎え、藤内Ⅱ式期には急速に衰退して器面全体を覆うようなものがなくなり、続く井戸尻Ⅰ式には終焉を迎えることから、藤内Ⅰ式を特徴づける重要な要素であるといえる。
注口土器 後期加曽利B式期 大花遺跡
縄文時代後期の土瓶型の注ぎ口のついた土器。胴部のほとんどは失われ、注口部・口縁部に付けられた突起・底部がわずかに残るばかりである。底部には、土器制作時に下に敷いた編み組製品の跡と思われる網代圧痕を見ることができる。器壁は、後期の土器作成時に多用される磨きの技法で磨かれていると思われる。
井戸尻考古館には、本当にお世話になってます。感謝です。ほのおの会の先輩たちが「土器をお借りする」と言う道を作ってくれて、今でも私たちのことを信頼して貸してくださり、お忙しい中、私たちの勉強になるように解説もしてくださる。教えていただいたことをまた、このブログに載せていきたいと思います。
今年は、3点の土器を考古館からお借りすることになっていて、今、学芸員の方に説明文をお願いしています。
今のところ、この2点をお借りしていて制作中です。土偶を作っている方もいます。
土器も土偶も縄文人の制作物が残っている不思議を感じつつ作っています。国宝や重要文化財に指定されているか否かは問題ではありません。先日、考古館の小松館長に収蔵庫を見せていただきながらお話をうかがいました。収蔵庫には、形になった土器だけではなく、復元途中の土器や土器片、石器なども整理されて並べられています。いわば、考古館の舞台裏でしょうか。縄文人がどうしてこのような形、模様を作ったのかな、と自分なりに考えながら土器と向き合ってくださいとおっしゃってました。土器土偶との対話、それが至福の時です。