縄文の見える町 By ほのおの会

前回の「発表の場」でお見せしたように、毎年、お仲間はいろいろなものを制作していますが、土器のレプリカは、本物の縄文土器をお借りしたり、画像を何枚もプリントして、より本物に近づけたいと思いつつ制作しています。そこで、富士見町のいろいろなところにレプリカを飾らせていただき、「星降る中部高地の縄文世界」の一翼を担う富士見町を「縄文の見える町」にしていけたらいいなと思っています。

信濃境駅は文字通り山梨県との境駅で、かつてはドラマの舞台にもなった小さな駅です。ここは井戸尻考古館の最寄り駅で「5000年前まで徒歩15分」というポスターが貼られています。改札を入って左側に設けられたスペースにほのおの会のメンバーが作った考古館収蔵の土器のレプリカが飾られています。

道の駅蔦木宿は国道20号線沿いの山梨県との境にあり、日帰り温泉「つたの湯」が併設されていて、人気になっています。その休憩所に、土器のレプリカを飾らせていただいています。

先日、富士見町地域共生センター「ふらっと」の受付ロビーに水煙渦巻き文深鉢のレプリカを飾らせていただきました。地域の皆さんが「縄文の町」を意識してくださればとの思いがあります。

今年は、ちょっと足を延ばして(?)お隣の小淵沢町にある宿泊施設スパティオ小淵沢のフロントにもメンバー制作の土器、土偶のレプリカを飾りました

どちらも山梨県の鋳物師屋遺跡で出土したものです。円錐形土偶は右手を腰に当てて、左手はおなかの赤ちゃんを撫でるように添えられている、妊婦を現した土偶です。右の人体文様付き有孔鍔付き土器共々、国の重要文化財に指定されているものです。どちらも、大変愛すべき土器土偶でレプリカを作りたいとう気持ちになります。故郷の山梨県に収まってるという感じです。

昨年は、友好都市多摩市のロビーに、富士見町紹介コーナーが設けられた際にメンバーの作った「水煙渦巻き文深鉢」と「始祖女神像土偶」を飾っていただきました。また、多摩市にある富士見町のアンテナショップ「ポンテ」には、土器のレプリカをお貸ししていて、イベント等に合わせて使っていただいているようです

古代遺跡のある町の玄関駅にはよく、土器、埴輪などのオブジェが飾ってあります。そこまで大規模でなくても、駅前だけの限定ではなく、その街に足を踏み入れたら、「どこでも土器を見かけるな→なぜだろう?→そうか、ここは縄文時代の遺跡がたくさん発掘されているいる町なのか」と気付ける「縄文の見える町」ってどうでしょうか?縄文時代に生き、土器石器を作った人々を尊敬し、現代に生きる我々が、発掘によって目にできたものに尊敬の念や称賛の意味を込めて、類似した作品を作る=「オマージュ」したいような、そんな気分です。

野焼きに向けてのラストスパート

今年の制作活動は昨日で一応、一段落しました。今まで紹介してきた土器の他にもたくさんの土器が出来上がりました。ぎりぎり、昨日出来上がり、これから家で模様をきれいにしたり、乾燥を進ませたりしてと最終調整に入る土器もあります。これまで紹介してきた土器以外で、どのような作品があるかご紹介します。

雑感:今年はとても暑い夏で(去年も言ってたかな?)体調を壊した仲間も何人かいましたが、それにも負けず、先日は薪の調達、運搬、積み下ろし作業を多くの仲間ででき、何とか来週の野焼きにこぎつけることができました。10日の野焼き、怪我のないように気をつけねば。「足と心をふらつかせず、地に足をしっかりつけて火に向き合います”」私の決意でした。いつも、力を抜いた全力投球を心がけている”ヅク”がない私です。

土器を作っていくということ その5

今までご紹介したように、井戸尻考古館のものや、日本全国の博物館にある縄文土器をまねて作ることが多いのですが、オリジナルなものを作ることもあります。今回は全くのオリジナルな作品です。しかも、結構、大型な土器。エネルギーに満ち溢れています。ご覧ください。

つぼ型に立ち上げて下には半載竹管の模様が入っています。角も大小二本。どんなふうになっていくのでしょう??

完成したオリジナルな土器。MMさんはこの土器の前に井戸尻考古館の水煙土器を作っていました。渦巻き模様は同じようですが、流れのある模様がついてます。「水流土器」とでも名前を付けたい土器ですね。

おまけ:来年の干支は”龍”

上の作品はSUさんの龍の小物入れ。M先生に手ほどきを受け、ちょっとお化粧してかわいい小物入れの出来上がり。左の龍は、後ろ姿が憂いに富んだ佇まいの癒し系な龍くんです。

土器を作っていくということ その4

今回は井戸尻考古館収蔵の土器ではなく、現在、名古屋市立博物館に展示してある土偶付き深鉢です。「深鉢のふちこさん」ですね。

縄文土器の口縁部に、全身像の土偶が付けられるものである。本資料のような土偶を付けるものは時期と分布範囲が限られ、数は多くないが、縄文前期から 中期の長野・山梨・東京といった中部山岳から関東に集中している。用途はあきらかでないが、祭祀にともなう神人共食の器とみなす説もある。縄文人の精神世界を窺わせる資料である。土偶付深鉢 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)

縁の飾りに下の左側のように顔面がついているもの(岡谷市小尾口海戸遺跡)は多いのですが、身体まで表しているのはこの深鉢と、下右(相模原市大日野原遺跡)くらいでしょうか?

それでは、制作過程を見て行きましょう。

完成しましたね。画像では見にくいかも知れないのですが、器面には全面に縄文が施されています。お顔といい、おしりといい、とってもかわいい愛すべき土偶ちゃんです。

おまけ:物入れのふちこさんが言ってます。     「ちょっと何か入れてみて!私がしっかり見張ってるから」

土器を作っていくということ その3

3回目は下の土器です。この土器は底がなく、おそらく、蒸し器形土器の上部だけが残ったのではないかと思われますが、きれいな作りで魅力的な土器です。何回かお借りして、たくさんの仲間が作ったことのある土器です。

尖峰状突起付土器(井戸尻Ⅲ式) 井戸尻遺跡3号住居址出土

井戸尻3号住居址から出土した、井戸尻Ⅲ式土器の標式資料とされている土器セット20点のうちの一点である。四方は三角に尖り、真上から見ると方形をなす。ただし、その一対は欠損している。口縁部は内湾し、方の中に円が存在する。蛇頭と双環がつけられ、その下に太い一本の隆帯が下がり、この隆帯には棒状工具を押し当てて刻みがつけられている。地文は半截竹管でつけられた条線で、口縁部と双環には太いうどん状の粘土紐が貼られている。

作り始めの頃です。3人のお仲間が作っています。

半載竹管(竹を縦半分ほどに割ったもの)で、壁面の筋を入れ、説明文にあるように、縁には粘土紐を列に貼り付けます。

完成間近です。小松館長のお話にもあったように、中もきれいに整えます。手に持っている布のようなものはセーム革で、水を含ませたこの革で撫でて仕上げをします。

完成しました。シンプルな模様ですが、とても丁寧に施されています。先ほど書きましたようにこの土器は下部が見つかっていませんが、この作者は下部をどのように作ったか、知りたいものだと思います。

おまけ:小学生の大胆

完成らしい。ウルトラマンと記念撮影

土器を作っていくということ その2

今回は、考古館からお借りした土器の2点目、3人が作っていた菱形蛙文揚底鉢です。

菱形蛙文揚底鉢(井戸尻Ⅲ式) 井戸尻遺跡3号住居址出土

井戸尻3号住居址から出土した、井戸尻Ⅲ式土器の標式資料とされている土器セット20点のうちの一点である。コロンとした鉢に揚げ底がつけられている。鉢または甕に揚げ底をつけるのはこの時期の土器の特徴。内湾する素文の口縁の下の口径部胴部は、うどんほどの太さの土紐を貼り付けて波線や紐を結んだような文様を描き出し、その後地文に条線をつけている。残念ながら半分ほどが失われている。

この土器の底部分は上げ底なので、粘土紐で輪っかを作ってから始めます。球体に広がっていく部分まできたら、お皿を乗せて底とし、そこから球体状に粘土を積み上げ、縁の部分でくびれを作り、さらに縁部を積み上げて、このかわいらしい形の完成です。

模様を入れていく時に、まず、線を描いていきます。この土器は細い粘土紐で描く模様と沈線とで描かれています。浮き上がった部分と、沈んだ部分で飾られ、縄文は施されていません。

粘土紐で隆線を、竹べらで沈線を描いていきます。粘土紐を張り付けるときは、とれてしまわないように気を付けなくてはなりません。”どべ”と言って、粘土を水でゆるく溶いたものを土器本体と紐につけ、接着剤として貼り付けます。

完成しました。

追伸:19日に恒例のハスのかたく取りをしました。胴長を履いてはす田に入る役、それを受け取る役、整理する役とみんなで分担して、2時間ほどで終了しました。今年は例年になく暑い日で、手早く終ることができて良かったです。

ハスの葉もまだ青々し、咲いている蓮の花もあり、花びらの散った花托もたくさん顔を出していましたから、さぞかし、花の季節はきれいだったでしょう。

土器を作っていくということ その1

ブログ担当者のあれやこれやで、6月以来3か月ぶりの更新になってしまいました。9月の半ばにもなれば、お仲間の中には、2点目3点目に着手している方もいます。そこでお仲間の制作過程を振り返って見たいと思います。

初めに紹介するのは、今年考古館からお借りした土器の一つです。

素文内湾口縁深鉢(井戸尻Ⅰ式) 井戸尻遺跡4号住居址出土

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素文で内湾する口縁には、尖峰状の突起が一つつけられている。尖峰状の突起には環形や三叉文がしるされ、円い穴は深くくぼんでいる。口縁の下には傘状の凸帯がめぐり、そこから凸線が、あるものは垂れ下がるように、あるものは「し」の字を描くようにつけられている。胴部の地文は半截竹管による条線や縄文がつけられている。器形・文様ともにこの時期に特徴的な煮炊き用の土器。

土器の説明は、井戸尻考古館学芸員の平澤さんにお願いしました。それでは、この土器の制作をしたお仲間の足跡をたどってみましょう。

左IMさんは3回目、右TKさんは1回目です。この土器の形の特徴は下部のくびれ方、二人ともピッとよくできています。(6/13)

THさんも上まで積みあがりました。IMさんは一歩進んで模様を入れ始めています(6/19,20)

模様を入れ始めると”目の色が変わる”?一つ一つの模様を追っていくのは時間がかかります。でも、楽しいものです。6月終わりころから7月いっぱいかかっていたでしょうか?

7月25日に完成した「素文内湾口縁深鉢」高さも、40cm以上あるので大作です。お疲れ様😁

今年度、初めにお借りする土器3点です

今年度はとりあえず、小ぶりな土器3点を井戸尻考古館からお借りし、解説文を書いていただきました。

香炉型土器 曽利Ⅰ式 曽利遺跡出土

表面に三角刻交叉文があしらわれ、頭頂部に釣手孔を有する小型の香炉型土器。左右に1つずつの孔を有し、この穴を抱くようにして三叉文が施されている。表面下部には、中心に一本の隆帯が走り、施された刻みによって引き締まった印象が備わっている、均整の取れた端正な仕上がりの土器である。裏面のほどんどが現存しておらず、残念ながら、施文の全容を知ることはできない。

区画文筒形土器 藤内Ⅰ式 九兵衛尾根遺跡

縦帯区画文を地紋とする、口径・胴径・底径に大きな差のない円筒形深鉢である。口唇部から二対の垂下降帯が対峙して器面を二分している。縦帯区画文は藤内Ⅰ式期に最盛期を迎え、藤内Ⅱ式期には急速に衰退して器面全体を覆うようなものがなくなり、続く井戸尻Ⅰ式には終焉を迎えることから、藤内Ⅰ式を特徴づける重要な要素であるといえる。

注口土器 後期加曽利B式期 大花遺跡

縄文時代後期の土瓶型の注ぎ口のついた土器。胴部のほとんどは失われ、注口部・口縁部に付けられた突起・底部がわずかに残るばかりである。底部には、土器制作時に下に敷いた編み組製品の跡と思われる網代圧痕を見ることができる。器壁は、後期の土器作成時に多用される磨きの技法で磨かれていると思われる。

井戸尻考古館には、本当にお世話になってます。感謝です。ほのおの会の先輩たちが「土器をお借りする」と言う道を作ってくれて、今でも私たちのことを信頼して貸してくださり、お忙しい中、私たちの勉強になるように解説もしてくださる。教えていただいたことをまた、このブログに載せていきたいと思います。

昨年は休会だったのですが‥‥

そんな折、11月にはこんなことがありました。

”信州蔦木宿道の駅”の休憩室に井戸尻考古館収蔵土器の複製品を展示してほしいというご依頼があり、会員制作の15点を展示させていただきました。井戸尻考古館収蔵物だけではなく、山梨県鋳物師屋遺跡出土の土器、土偶もあります。ほのおの会のメンバーは、そのご依頼を大変うれしく思い、次の年に続く土器作りの意欲が大いに盛り上がりました。

また、中央本線信濃境駅は井戸尻考古館来館時の下車駅で「5000年前まで 徒歩15分」と言うキャッチコピーのポスターがあるところです。そこにも、複製土器が飾ってあります。

このように、富士見町内のいろいろなところに複製した土器を置くのは、会員の制作意欲の向上と言うことはもちろんですが、日本遺産にも指定されているこの中部高地縄文文化の軌跡に触れることのできる、井戸尻考古館のPRにもなっているようで、その点でも意欲が増します。

お仲間の作ったものや自分で作ったものを客観的に見るのは、とても楽しいことです。

何ができるかな? 答えは‥‥

前々回の「何ができるかな?」の答えです。まず、ラグビーボールのようなものは‥‥

かわいいイノシシの土鈴になりました。ベンガラで赤くお化粧しています。

キノコの形をした球状の物は‥‥

前後に口が開いて‥‥

飾りがついて、香炉形の土器になりました。

面白い作り方をするものですね。この土器をお借りすることはできなかったので考古館の館長が丁寧に何枚も各方面から写真を撮ってくれて、それを見ながら作っていました。本物が目の前にあるのと違って平面の物を頭の中で立体的に変えながら作っていくのはなかなか難しい作業です。とても、よくできていると感心しました。

おまけ

これは何かというと‥‥‥

縄文の耳飾りです。大型のピアスですね。まねて作ってみましたが、縄文時代の人のようにきれいにはできなかった。何個か挑戦してみたいと思っています。

耳飾り豆知識

縄文時代全般を通して装飾品の中でも、耳飾りはたくさん出土していますが、後半期から晩期にかけての北関東では質、数ともに他を圧倒していて、特に群馬県茅野遺跡では調査部分だけで577点もの耳飾りが出土しているそうです。耳たぶに穴をあけて、小さいものからだんだんと大きなものをはめ込んでいったのでしょう。縄文時代を生きていた人のおしゃれ感には脱帽です。