そうぞう と そうぞう

縄文時代は限りなく遠いようです。始まりは1万年以上も前のことで、この富士見町近辺に多くの人が暮らしていたのは縄文時代中期4500年から5500年くらいも前のことだと言われてます。1000年ほどの間に暮らしていた縄文時代の人々は、土器や石器、居住跡を多く残して、現代の我々に「あなたたちと同じ景色を見て暮らしていたんだよ」と言ってくれています。確かに今は人工物が多いですが、植生は変わっても山並みは当時のままでしょう。川も同じように流れていたでしょう。考古館の史跡公園に立ち甲斐駒や鳳凰三山を眺め静かに目をつぶって、人工物を頭の中で取り除くと、縄文の人たちが見ていた景色がそうぞうできます。

史跡公園広場からの右手甲斐駒、左手鳳凰三山

土器作りに関していえば、この模様を入れるという発想は何なのか❓と、そうぞうするのです。

そして、色々な土器を作る合間に、自分のオリジナルな縄文風そうぞう物を作るのも楽しみです。

Imagin(想像:実際に体験していないことを推し量る)とCreat(創造:新しいものを初めて作り出す)

遠い縄文時代に想いを馳せ、想像したり、創造したり、とても貴重な時間を過ごしています。

今年度、初めにお借りする土器3点です

今年度はとりあえず、小ぶりな土器3点を井戸尻考古館からお借りし、解説文を書いていただきました。

香炉型土器 曽利Ⅰ式 曽利遺跡出土

表面に三角刻交叉文があしらわれ、頭頂部に釣手孔を有する小型の香炉型土器。左右に1つずつの孔を有し、この穴を抱くようにして三叉文が施されている。表面下部には、中心に一本の隆帯が走り、施された刻みによって引き締まった印象が備わっている、均整の取れた端正な仕上がりの土器である。裏面のほどんどが現存しておらず、残念ながら、施文の全容を知ることはできない。

区画文筒形土器 藤内Ⅰ式 九兵衛尾根遺跡

縦帯区画文を地紋とする、口径・胴径・底径に大きな差のない円筒形深鉢である。口唇部から二対の垂下降帯が対峙して器面を二分している。縦帯区画文は藤内Ⅰ式期に最盛期を迎え、藤内Ⅱ式期には急速に衰退して器面全体を覆うようなものがなくなり、続く井戸尻Ⅰ式には終焉を迎えることから、藤内Ⅰ式を特徴づける重要な要素であるといえる。

注口土器 後期加曽利B式期 大花遺跡

縄文時代後期の土瓶型の注ぎ口のついた土器。胴部のほとんどは失われ、注口部・口縁部に付けられた突起・底部がわずかに残るばかりである。底部には、土器制作時に下に敷いた編み組製品の跡と思われる網代圧痕を見ることができる。器壁は、後期の土器作成時に多用される磨きの技法で磨かれていると思われる。

井戸尻考古館には、本当にお世話になってます。感謝です。ほのおの会の先輩たちが「土器をお借りする」と言う道を作ってくれて、今でも私たちのことを信頼して貸してくださり、お忙しい中、私たちの勉強になるように解説もしてくださる。教えていただいたことをまた、このブログに載せていきたいと思います。